「学問がないのは、この国です」
この時期、戦争に絡むドラマやドキュメンタリーがよく放送される。NHKが中心、全部とは言わないまでも気になった番組は残しておくようにしている。この夏も三つ、四つと録画して観た。大河ドラマ『豊臣兄弟』配役の関わりもあるだろうが、2010年制作、放送された『15歳の志願兵』の再放送が心に残った。

愛知一中(旧制中学)の生徒たちが海軍飛行予科練習生(予科練)に集団志願した「愛知一中予科練総決起事件」の記録がもとになっている。従って完全なるフィクションとは言えない。当時の学校の姿、校長や職員が抱えていたことや軍部の力など、おそらく史実に近いはずと想像させてくれる描き方に見入った。
ドラマとしてのクライマックスは、終末にあった。視力によって志願兵とならなかった主人公が、戦死した親友の家で手紙を読み、母親と言葉を交わす場面である。自分に学問がないから息子の気持ちを汲み取れず、死なせてしまったと涙する母に対して、主人公はこんなふうに言い返す。
「僕たちは学校で死ねと教わりました。学問がないのは、この国です」
この「学問」という言葉は、突きつめると実に厳しく重い。母親は表面的にその境遇から手紙に表した内容を読みとれなかった悔いのような言葉として使う。いわば「広い教養・学識」だ。当然、それまでの育て方とも関わる。しかし、主人公が返すのは、「体系的な知識や理論(の専門的な学び)」という意味と捉える。
精神論を優位に成立する統治組織を作ってしまった過ちを(そう言えば『日本の一番長い日』で東條英機が昭和天皇と対峙する場面も、ある意味そんな描かれ方をしていた) 繰り返さないことが最も肝要ではないか。今、この国の学問、学術研究に対して政治の側から発せられる考えや動きは、どこか高圧的に感じる。

学術会議に対する口の出し方は数年前の某首相から始まったが、どうにも学問の国家統制のような印象を受けてしまう。学問に対する謙虚さを失くした指導者はやはり危険だ。この夏、戦争に関わる様々な式典の首相挨拶で典型的なのは、「繰り返させない」の「せ」に込められた歴史認識だ。責任逃れが始まっている。