老いたる馬は直観を磨く
今年初めに妻の母親が亡くなり、私たち夫婦には「親」と呼べる存在がいなくなった。もちろん年長の縁者はいるにはいるが、実質自分らが「敬老の日」の限定対象者?となる。9月15日は今「老人の日」という。しかし「敬老の日」の祝日イメージは第三月曜より、この日が強い。制定の1966年に私は10歳だった。
十代の記憶はないが、職についてから祖母や母に対して何か贈ったりしたことは人並みにあった。それはある程度自立できた証拠と言ってもよいし、苦労した世代への感謝という気持を表す一つの機会だった。環境的にも難儀した事実は多いはずだ。しかし今、プレゼントをされる立場になり、ふと考える時がある。
感謝されるに値する苦労は少なかったし、十分に手や目をかけた自信もないのだ。ただ、気恥ずかしさもありながら子や孫の優しさに素直に応じるのが、高齢者の嗜みであろう。老いたゆえの失態を和らげたり、紛らわせたりしてくれるのは、傍にいてくれる者たちだ。それゆえ、出来ることは維持していたいものだ。

ただ、そもそも「老人を敬う」感覚は無制限に正しくはない。「老醜」「老害」の現状もまた多い。「老人は敬愛すべきか?」という先日の新聞コラムは祝日の意義を問うていた。到底改正できるとは思わないが、「老人が敬愛されるように努める」という心がけを再認識する日と、齢を重ねた者は解釈したい。
「老いる」はほとんどの辞書で「年よる・衰える・弱る」の意味しか出てこないが、大辞典では「円熟した状態になる。熟達する」もある。慣用句は「老いては子に従え」「老いて再び稚児になる」が一般的だ。しかし次の句は頼りだ。「老いたる馬は路を忘れず」…各々の路で得た経験は貴重だ。その直観を信じたい。