すぷりんぐぶろぐ

今、頬に感じる風を楽しめれば…

贅沢全廃委員会◇混迷

すぷりんぐ

(前日からの続き)

 自分が「贅沢だなあ」と口に出す時はどんな場面か。例えば、食事場面で高級な料理や盛り沢山のメニューが並ぶ時。例えば、豪華な建物、施設や斬新なアイデア空間などを目にした時。まだまだあるはずだが、思い浮かぶのはやはり金銭のかかる、時間も人手も尽くされたようなモノが多い。一般的な感覚だろう。

 

 当然、感じない人もいる。出自や環境によって養われた心性は様々だ。万人に通用する贅沢などないとごく当たり前のことを思いつつ、「格差」という語がよぎる。それは何も今の時代ばかりではない。しかし、現代の資本主義社会に顕著であり、また個々の贅沢への欲望が、この社会を生み進ませたことに気づく。

 

 

 「贅沢は格差を可視化し、不平等を固定化する」と東畑開人は書いている。なるほど。だから戦時中の「贅沢品全廃運動」は意図が明確であり、国民の分断化を防ごうとしたわけだ。しかし実際は格差や不平等がなくなったわけでなく、見えにくくなるだけなのだが…。とにかく「平等」にとって「贅沢」は邪魔らしい。

 

 なんだか話が社会の方へ傾いた。個人について検証しようとすれば、どうしてもそうなる。物的、経済的活動で考えると、自分の「贅沢」が他者に何かしらの影響を与える、自由な振る舞いが知らない誰かの不平等や不自由に加担しているのではないかという思いが残るからだ。やはり「贅沢は敵だ」…そうかもしれない。

 

 だったら贅沢のラインなど意味があるかと思う。がしかし、その大雑把さが問題なのではないか。いつしか私たちの多くは「贅沢だなあ」と口にしなくなった。日常生活に必需品以外のモノ、コトが溢れすぎて、その境目を意識できなくなっている。それは自由であるのか、不自由なのか。贅沢が見えなくなっている。(続く)

×

非ログインユーザーとして返信する